見る前に跳ぶんだ

日々の雑考。方向性はこれから考えます。

スイス留学日記最終回 語学、アイデンティティ、自信

帰国しました。

実は帰国して既に二週間がたってるんですが、ようやく落ち着いたので後日談を少々。

 

五月上旬でしょうか。

スイスでの生活も残すところ一か月を切ってついに日本人に出会いました。

 

彼とは特別授業後の軽食セッションで出会い、「日本人じゃん」ということで意気投合し、話が弾みました。

久しぶりにスカイプ以外でしゃべる日本語。

やはり、口から言葉が自然に出てくる感触がすごく安心します。

 

彼は日本の大学で学士を取り短期留学を経てそのままアメリカに渡りその後修士、博士を海外で取得し、現在はチューリッヒで研究員、いわゆるポスドクをやっているらしい。

 

豊富な海外経験、そしてなんとスペイン人と結婚しているらしく、スペイン好きの僕にとっては聞きたいことが尽きない人でした。

 

しかしちょっと気になることがあった。

別の外国人が英語で話しかけてきたときに彼が対応した時です。

そう、彼はあまり英語が「上手」じゃない。

 

発音がまるで日本語英語で何回も相手に聞き直され、ちょっとこっちも恥ずかしくなってしまった。

 こっちとしては、なんで何年もアメリカで暮らしてんのに全然英語上達しないんだ、なんて失礼なことを思ったりしました。

 

でも、よくよく考えると、これってあまり意味がない議論なんですよね。

語学の「上達」の意味をはき違えてた。

 

もちろん文学や演劇、アナウンサーなど言葉の専門かを目指すのであれば話は別でしょう。

しかし、僕ら一般人にとって言語習得の目的はコミュニケーションをとること、及び、文化的な思考スキームの理解にあると思います。

(文化的思考スキームというの、例えば日本語は述語が最後に来るから冗長になりがちとか、そういうことです。)

 

多少の手間はありますが、彼はコミュニケーションを取る、という意味では問題ないですし、発音が上手とか下手とか、言語のセンスももちろんありますが、やっぱり生まれてこのかた身につけてきた母語ほどにはならない。

 

なのでそこでそもそも競い合うこと自体が無意味です。

じゃぁ、何が重要なのか。

 

自信です。

 

日本人がしゃべる英語、日本語英語。

これ自体もアイデンティティとして、もっと正面から向き合うべき出来事なんじゃないでしょうか。

 

例えばアメリカとイギリスがそれぞれアイデンティティを持って違う「英語」を話すように、自分たちのバックグラウンド、自分たちの「英語」をもっとポジティブにとらえてもいいんだと思います。(もちろん最低限伝わる必要がありますが)

 

やっぱり、この留学で一番学びだったのは日本人には、僕には自信が足りない、そこに気づいたことかもしれません。

この留学でも、実は留学以前に落選した会社でも、どうせ英語しゃべれないし、どうせ出来悪いし、どうせ間違ってるし、こういうメンタルが戦う前に勝負を分けてるような場面がいくつもありました。

 

でもやっぱりこの留学では僕は人に恵まれていて、一緒にプロジェクトを進めた相棒は、必ず僕の意見に耳を傾けてくれた。

もちろん、彼も言いたいことがあるときははっきり主張するし、結果的に僕の意見が否定される場面もたくさんあった。

でも、自分よりすごい(と思ってた)人がしっかり自分みたいなへたくそな英語、凡庸な意見に耳を傾けてくれる。時に褒めてくれる。

 

自信を持つことは主張することだけではない。

相手をリスペクトすることにもつながるんだ。

 

こう考えられるようになった瞬間でした。

 

まだまだ自分を信じることがしっかりできるようになったわけではありませんが、そのことに気づけたこと自体がすごく大きな学びとなった留学だったと思います。

 

 

 

 

そして、日本では結構叩かれてたみたいだけど、自信を持って堂々と振る舞った日本人。この人は結構好例なんじゃないだろうか。

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安倍首相は政策とかではいろいろ支持できない部分もあったりしますが、こういう姿勢は日本人誰もが見習う難ではないかと思う。