見る前に跳ぶんだ

日々の雑考。方向性はこれから考えます。

インターステラ:21世紀版、2001年宇宙の旅

今週のお題「ふつうに良かった映画」

 

ふつうに良かった。これお題設定として曖昧じゃないかと思うんですが。笑

パッとみよさそうだけどちょっとあやしいなあ、、いやでも見たら普通によかったわ、みたいな複雑な感情の表現でしょうか。笑

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僕がおすすめしたい映画は、「インターステラー」です。

 


『インターステラ―』 予告映像 - YouTube

 

 

 

これはわりと新しい映画ですね。

確か、去年末だったと記憶しています。

 

この、インターステラ―、何が良かったかと聞かれると「全部」といいたくなるのですが、やはりずば抜けていたのは映像の美しさです。

 

ワームホール、五次元の世界など、普通の人ではおよそ想像もつかないような出来事を映像に落とし込む力は見事としか言いようがありません。

特にワームホールに突入する瞬間は必見です。

 

そして内容の話をすれば、科学の最先端をしっかりと織り込んだ、極めて複雑かつ精緻な設定の上で「愛」を語るという構造が非常に面白いです。

 

結構見た知り合いから出た評判の中で、特に文系の人からは「何言ってるかわからん部分が多々あったが、面白かった」という前置きを多く聞きました。

それもそのはず、超ひも理論特殊相対性理論、バイナリ―データなど、専門的な用語が飛び交っています。(僕もよく理解しているとは言い難いですが)

 

これがわからないから楽しめない、という構造になってしまっていればただの自己満足映画となってしまうところですが、ここに「愛」というもっとも原始的なものを挿入することでどんなに科学が進歩しても、人間社会が変わっても「愛だけは変わらない」という強烈なメッセージを見た人すべてに伝えているのがこの映画のすごいところだと思います。

 

作中では、厳しい時間制約の中で人類の未来を背負ったたった数人のクルーという極限状態の中、愛と科学、もしくは論理とのせめぎあいが多く見られます。特にアン・ハサウェイが愛こそが科学に示せない可能性を示す、と力説する場面はとても印象的です。

 

やはり最終的に科学や論理は可能性を指し示すものでしかない。最終的に行動を決めるべきなのは自分を突き動かす感情、つまり愛であるべきなんだ、というのは現代人が忘れてはいけないことなのかもしれませんね。

 

また、この映画での「愛」の形を体現する人物として重要だ思うのは、マット・デイモン演じる、マン博士、そしてケイシー・アフレックが演じる主人公の息子、トムです。

両名とも、物語が進むにつれ、あまりいい印象を残さない幕引きとなっていますが、僕はこの二人が示す愛の形は非常に重要だと思います。

 

①マン博士:自己愛

ネタバレしないギリギリの線で説明しますが、マン博士は長い孤独な旅の末、生への執着、自己愛に目覚めます。彼が自分を守るために取る行動は物語に大きく影響を与えます。しかし、自分を愛して何が悪い、それは家族を愛すること、人類を愛することとなんら変わりないじゃないか、という彼の問いかけはとても重要だと思います。種の保存。それ自体、かなり幅のある概念で、作中でも遺伝子だけを守り抜くという究極のバックアッププランも用意されているわけですが、やはり、自分、その「個」を堅持し続けたい、というのは人間として自然な気持ちなのかなと思います。この人がいるからこそ作中で描かれる「愛」には深みが出ます。

 

②トム:郷土愛

彼は幼少期から優秀ですが、時代背景に乗っ取り農業を学ぶことに決め、それを生業とし自分の畑、土地を愛しています。気候が変わり、未来が見えなくなってもそこに執着し、家族とも軋轢が生じてしまします。自分が愛する土地に執着すること、これはダーウィンの進化論からいえばまったく真逆、自然淘汰の敗者となるわけですが、「適応できるのにしない」、これも一つの人間性の在り方の一つなのかな、と思ったりします。彼は自分の愛する土地とともにあることを選びます。彼は父を信じ交信を送ることを早々に断念しますが、「目に見える現実を愛する。」それが彼の生き方だったのでしょう。そして彼の末路は作中では描かれません。

 

そして、なんといってもこの映画を語るのに欠かせないのは2001年宇宙の旅へリスペクトと決別です。随所にこの作品のコラージュや、逆に対比になっているシーンが見受けられます。

 

まず、映像について。

飛行船の中を映している描写から宇宙船が虚空に浮かぶ映像に切り替わる瞬間、音がなくなります。これは宇宙の孤独感を示す描写として2001年~のそれをかなり意識していると思います。

 

続いて内容について。

2001年~に似た設定と、微妙な対比を持たせることで、この作品のオリジナリティーを際立たせていると思います。

 

まずロボットについて。

2001年~にはHAL、インターステラではTARSという人口知能が出てきます。

前者は途中で狂ってしまいクルーを混乱に陥れますが、後者は最後までクーパー博士のよき相棒であり続けます。

ここでキーワードとなるのが「正直度」です。HALは嘘がつけませんでした。そのため、地球側が嘘を付くように指令を出したため狂ってしまったのですが、TARSは「正直度」が自由に設定できる旨が印象的に述べられています。この「人間らしさ」の格上げについては、矛盾や非論理的な感情などを越え、「人間らしさ」へのもう一段階高い問いを立てたかったからなのではないでしょうか。このTARS、見た目以外に唯一人間と違う部分として、生存への執着が一切ない。それは作中でも述べられていますが、やはり「知能」だけでは「人間らしさ」として足りないということなのでしょう。生存本能という、よりプリミティブな部分に焦点を当てることで作品のメッセージ自体が大きく変わります。

 

そして、超越者の存在です。

これはアーサーCクラークの作品全般に見られる思想ですが、何か超越的な存在の啓示を受けて人間が進歩していく、こういう作品の構造になっています。一方のインターステラは超越者の存在を示唆しながらも、あくまでも焦点は人間の内発的な冒険と葛藤に充てられています。それは両者の結末が決定的に異なることからもわかります。

 

つまり2001年宇宙の旅は「人間はこうなっていくべき」というあるべき論を指し示しているのに対して、インターステラは「人間とはこういうもの」というありったけの表現を伝えようとしているのかなぁと思っています。

20世紀の偉大な作品にチャレンジし、映像、内容ともこれに劣らず強烈なものに仕上げたクリストファー・ノーランは本当に見事としか言いようがありません。21世紀のSFの金字塔となる可能性は十二分にあります。

皆様も是非、一度ご覧になってはいかがでしょうか。